今回の記事では投資に関わる知識として、日本の対外通貨金融関係に大きな影響を及ぼしたキッカケについて少しだけ詳しく考察していきたいと思います。
※今回の記事はあくまで筆者の考察です。温かい目でお読みいただけると幸いです。
さてさて、日本の対外通貨金融関係とは一体どんなものなのでしょうか?皆さんは「FX」という言葉を聞いたことがありますか?これは海外の通貨と日本の通貨の為替レートを利用した取引で、円と対外通貨との関係値が重要になってくるわけです。
今回は実際の取引とは少し着眼点が異なりますが、今まで円、つまり日本の対外通貨金融関係に影響を与えた歴史的な2つの要因、「ニクソンショック」と「プラザ合意」について考察します。
ニクソンショック
まず1つ目は1971年のニクソンショック。ニクソンショックが日本の金融市場に与えた影響は変動相場制へのシフトと、インフレです。
ニクソンショックとは、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が1971年8月15日に、テレビとラジオで全米に向けて、新経済政策を急遽発表したことで、その中の「金ドル交換停止」のことを主に指します。
- 減税と歳出削減
- 雇用促進策
- 価格政策の発動
- 金ドル交換停止
- 10%の輸入課徴金の導入
この金ドル交換停止は、アメリカ議会にも事前に知らされておらず、とても大きな驚きを与えたと言われており、またこれがグローバル経済に甚大な影響を与えたことから「ドルショック」とも呼ばれています。この政策により第二次大戦後の通貨の枠組みであったブレトンウッズ体制が崩壊し、固定相場制から変動相場制へと移行することになりました。
日本での金融市場への影響は、円が切り上げられ、円高が進行しました。1971年12月のスミソニアン合意で1ドル360円から1ドル308円まで切り上げられた円・ドルレートは、変動相場制の導入によって一時1ドル260円近くまで上昇することにもなりました。つまり、急激な円高は国際競争力を失わせることを意味し、経済の鈍化と景気の悪化が予測されたのです。
スミソニアン合意 | ニクソンショック |
1ドル=360円 → 1ドル=308円 | 1ドル=308円 → 1ドル=260円 |
ニクソンショックに対する日本政府の対応
日本政府は、当時謳われていた「日本列島改造論」の実現という目的も重なって、積極的に財政・金融政策を進め、景気の悪化を阻止しようとしました。特に金融面では、公定歩合を引き下げ、大幅な金融緩和政策を採用したのです。
その結果、ニクソンショック発表の1971年の景気は悪化したものの、翌1972年に入ると早くも景気上昇局面を迎えました。その意味では、日本は変動相場制への移行という国際通貨制度の変革に上手に対応したわけです。
しかし、このあまりにも積極的な財政・金融政策は様々な弊害を生み出しました。大幅な金融緩和政策により貨幣供給量が増加し、急激な貨幣供給量の増加は地価、株価、物価のインフレをもたらしました。さらにその追い打ちとなるようにこの後すぐに発生する1973年の第一次石油ショックと相成って、さらにインフレが加速していくこととなるのです。
私はニクソンショックがある種の登竜門ではなかったのかとも考えます。
1950年代以降、技術革新投資により日本は高度成長期を迎えました。しかし1970年代に入り、ニクソンショックのような国際経済環境に急激な変化が起こります。
これらの戦後初めてともいえる国際変化にどのように適応してきたのかが今日の日本経済の柔軟性、対応力にもつながっているでのはないでしょうか?つまりニクソンショックは具体的な影響に加えて、目には見えない、内包的な影響も与えたのではないかと考えます。
プラザ合意
2つ目は1985年のプラザ合意です。プラザ合意とは1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで開かれたアメリカ、日本、旧西ドイツ、イギリス、フランスの五か国の蔵相および中央銀行総裁による緊急会合で成立した合意のことを指します。
プラザ合意が行われた背景としては、1980年代に入り日本の対米貿易黒字は増え続けましたが、円相場は円安傾向だったこと、そして米国のレーガン大統領による高金利政策があげられます。
前述しました1970年代の石油ショックの影響によるインフレを抑えるためにレーガンは金利を引き上げ、物価を安定に向かわせました。その後、レーガンの減税政策と、ソ連に対抗するための軍拡政策によりアメリカの財政赤字が巨額になり、これが貯蓄を吸収したため、外国から資金を調達することが迫られ、高金利政策が維持されたのです。
この政策が円安・ドル高を持続させ、アメリカの対日貿易赤字を増やし、アメリカ議会などでの保護主義政策を求める圧力をふくれあがらせました。
アメリカ、日本、旧西ドイツ、イギリス、フランスの五か国による会合の存在はこのとき初めて公表され、この先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議はGroup of Five(以下G5)と呼ばれています。
プラザ合意が日本に与えた影響①
プラザ合意が日本に与えた影響としては簡潔にすると、やはりバブルへの突入です。
日銀は9月24日から東京市場で大量のドル売り、円買いを実行し、アメリカと旧西ドイツでも同様の市場介入が行われました。円相場は228円台を突破し、年末には200円近くまで上がりました。
当初G5はこの程度の水準と予想していたとしています。翌1986年1月には1ドル=200円を突破。8月20日には1ドル=152円の最高値も突破し、1986年10月末、宮沢大蔵大臣とベーカー財務長官が、為替相場は現状が望ましいという共同声明を出しました。
プラザ合意が日本に与えた影響②
しかし翌1987年1月には150円を突破したため、1月21日に為替相場安定のために日米が協調するという第二次宮沢=ベーカー声明が出されました。
さらに2月22日にパリのルーブル宮殿で開かれたG7(G5にイタリアとカナダを加えた先進7か国の会議)で為替相場安定のための協調介入(ルーブル合意)が約束されましたが、 12月28日には円相場は123円台に達しました。
つまり、プラザ合意後の急激な円高による輸出産業への打撃を緩和するために採られた長期間の低金利政策が、日本にバブル経済を出現させ、地価を暴騰させ、それがバブル崩壊後の地価の暴落と不良債権の累積につながったのです。
まとめ
今回まとめあげた2つの国際的出来事は必然性をもって関連しています。しかし、仮に第一次石油ショックの時期が違えばなど、なにか1つのファクターがずれていればまた異なった結果になっていたのではないでしょうか?
ニクソンショック、プラザ合意などをただの日本金融市場に影響を与えた歴史としてみてはいけません。なぜなら過去、もう繰り返されない事実ではないからです。将来、これらのような出来事がおきた時と同じような状況に日本が直面したとき、国際金融市場にまた何かしらの動きがみられるのは間違いありません。その時、自分の身を守るため、今後何が起こるのかを予測するための材料として、歴史から学ぶのも1つの方法かもしれませんね。